ジャニーズ問題。──それはもう“元ジャニーズ”という名前で呼べないほどに、構造的な問題だ。
だが、いまだに“誰も裁かれない構造”が温存されている。そして一番不思議なのは、見逃した者、加担した者、沈黙した者が、すべて“無傷”でこの構造から抜け出せてしまっていることだ。
今回はこの奇妙な構造──“責任の所在がどこにもない”ジャニーズ問題の根幹に、真正面から切り込む。
【第一章:加害と裁きが一致しない構造】
ジャニー喜多川の加害は、既に英国の報告書をはじめ、客観的に立証された。
しかし、“加害者”は故人で、“裁き”はない。
その後、STARTOへの移行や賠償スキームの発表もあったが、何が変わったのか。
──誰も裁かれていない。にも関わらず、事務所再編が進み、タレントは活動を継続。ファンも一定の支持を続け、テレビ局はSTARTOを“新しい会社”として扱う。
“裁き”が来る前に、“構造”が再編されたのだ。
【第二章:沈黙の共犯構造】
ここで出てくるのが、「見逃した者」の問題だ。
ジャニーズの加害は、報道番組でもバラエティでも、長年語られなかった。
テレビ局、週刊誌、レコード会社、そして出演者自身。
構造の中で“沈黙すること”が最善とされた。
その沈黙の結果として、“加害の存在はなかったこと”になり、今でもジュリー氏は破産していないし、STARTOはビジネスとして機能している。
まさに、“見逃した者ほど無傷”──という、逆説的な構造が出来上がった。
【第三章:沈黙するタレントの責任】
ここで象徴的な存在が、木村拓哉だ。
SMAP解散時にも沈黙し、加害報道に対しても沈黙を続ける。
彼の“責任”を問う声は少ない。
一方で、草彅剛は過去に逮捕され、その後断酒・復帰・映画賞受賞までの“回復の物語”がある。
香取慎吾は新しい地図を立ち上げ、ジャニーズと距離を取った。
沈黙と再出発の差。
だが、沈黙した者が損をしているわけではない。むしろ、沈黙はビジネス上の安全策だった。
その“構造”こそが、今回の本質なのだ。
【第四章:なぜ見逃した者は無傷でいられるのか?】
ここで冷静に考えてみよう。
“見逃した者”が無傷でいられる条件。それは、加害構造の再編が、“倫理より経済を優先”したからだ。
視聴者の“怒り”は継続していない。
テレビ局の“忖度”は終わっていない。
タレントの“沈黙”は尊重されすぎている。
つまり、構造は変わっていない。名前だけが変わった。
この構造は、加害を見逃した者の“責任”を、そもそも定義しない。
だからこそ、誰も裁かれない。
【第五章:ファンの選択と倫理】
さらにもうひとつ、忘れてはいけない視点がある。
それはファンの“応援”が構造を支えているという事実だ。
推しを守りたいという感情が、“構造批判を拒否する力”になってしまう。
結果として、「応援は加害の共犯か?」という問いが、避けられ続ける。
これは、ファンが悪いのではない。だが、構造を維持するのはファンの選択でもある。
“誰も裁かれない構造”において、ファンの沈黙もまた“見逃し”に加担する形になってしまうのだ。
【エンディング】
ジャニーズ問題は終わっていない。
加害構造は、生まれ変わったように見せかけて、実は生き延びている。
誰も裁かれない──それは、加害者だけではなく、“見逃したすべての者”にも責任が問われないということだ。
沈黙する者、再編を推進する者、応援し続ける者。
この問題は、全員が“加害構造を受け入れるかどうか”の選択を迫られている。
だからもう一度問い直したい。
**ジャニーズ問題──なぜ、見逃した者は無傷なのか?**
この問いに向き合うことが、“構造の再編”ではなく“構造の終息”につながる唯一の道なのかもしれない。
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